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Gastronomy

手つかずの原野と豊かな港巡り、味わう別海の恵み

車窓から眺める北海道が好きだ。ただ、別海を巡るにあたり、原野を行くには車は速すぎるらしい。産業の風景が濃く残る北海道、それぞれのまちに独自の景観が広がっている。別海町は北海道でも有数の漁獲高を誇る漁師まちであり、手つかずの原野が広く残るまち。カヌーと自転車を乗り継いで、ゆっくりと時間をかけて旅をする。案内人はネイチャーガイドOUTLANDの鈴木貴也さん。OUTLAND=原野、まさにこの旅にふさわしい人だ。カヌーで原野の間を抜け、海沿いを自転車で駆け、漁港で漁師の鈴木翼さんに会い、最後に別海の幸をいただく。土地の恵みをこぼさずに味わう1日。思い出せばまた、あの日の余韻がこみ上げてくる。

案内人の鈴木さん。カヌーをはじめ、トレッキング、乗馬とガイド領域は幅広い

ヤウシュベツ川/旅のはじまりカナディアンカヌー

「日本の湿原の約8割が北海道にあって、そのうちの約8割が北海道の東側、いわゆる道東にあるんです」とは、案内人の鈴木さんの言葉。そう聞いて納得、確かに道東には湿原が多い。代表的なのは釧路湿原などだろう。年中観光客が訪れる、北海道を代表する観光地のひとつだ。「これから向かうのはヤウシュベツ川湿原。しょっちゅうカヌーを浮かべるホームリバーですが、この川で人に会ったことはありません。いつもポツン、です」と鈴木さんは無邪気な顔で教えてくれた。

ライフジャケットのベルトをギュッとしめる。岸に浮かぶカナディアンカヌーに足を入れると、穏やかな水面に波紋が広がっていく。左右に揺れる体軸に安定を覚えた頃、パドルを握りしめてヤウシュベツ川をいざ下る。

「右に向きたいときは左側の水面を掃くように漕ぎます。これが左スウィープです」。鈴木さんに教わりながら、右へ左へパドルさばき。狭い川幅の両岸に繁茂する河畔林の間を、時には枝のアーチをくぐりながら進む。行きたい方向へ胸を向けたらパドルを川に刺し縦にかく。思うようにはいかないが、自分の意思とカヌーの向きが揃うと心は弾み、まっすぐに進めば心はすーっと整っていく。

しばらくすると赤い橋が見えてきた。JR標津線が通っていた頃の名残で、今日の航路にかかる唯一の人工物だそう。たしかに、川にかかるどころか、周囲にも人工物はほとんど目にしていない。そういえば話し声以外の音もほとんどなかった。

橋を越えて進むと川幅は少し広くなり、木の姿はまばらに。水の流れにパドルを任せると、鳥のさえずり、湿原を通り抜ける風の音が遠くから聞こえてくる。風は時折、乾いたヨシや湿った泥、かすかな潮の匂いも運ぶ。静寂の中で「ポツン」と、ただ漂う時間。研ぎ澄まされた五感は脳のシグナルに関係なく、心地良い情報だけをキャッチする。

なにもない、原野。

「手つかずの自然が残っている、というよりも、あえて言うと『利用価値がなかった』んですよね」。鈴木さんがぽつりとつぶやいた。開拓当時、北海道のあらゆる原野に人間は挑み、厳しい自然と対峙しながら切り拓いてきた。いま目の前に広がる手つかずの自然は、畑作にも向かず、木材もとれず、利用手段がなく、人の手が及ばなかった場所。だからこそ残っている原野だ。その原野にポツンと漂っている。

ゆるやかに、蛇行を繰り返しながらカヌーは進んでいく。カーブに差しかかるたびに胸が高鳴っていることに気づく。

絵本のページをめくるように、蛇行の度に目の前の景色がゆっくりと入れ替わる。一面の青い空と、それを映す穏やかな水面、白茶けたように乾いた両岸のヨシ。要素は変わらないけれど、そのバランスや構図の変化で感じがぐっと変わる。子どもの頃のような瑞々しい感性と澄んだ五感が美しさに感動している。こんなにも穏やかに、震えるように心が動くのは久しぶりだ。

ゴールの万年橋が見えた頃、右手にある浅瀬にカヌーを乗り上げてランチタイム。おにぎりとホタテのスープがパドルから提供される。この川が注ぎ込む風蓮湖のさらに先、尾岱沼で獲れたホタテの稚貝のスープは冷えたからだにじんわりと沁みわたる。穏やかな向かい風を浴びながら、最後はしっかりパドルを漕いでゴール。

川と海を繋ぐサイクリング

ここからは自転車に乗り換え。パドルを置いて、ペダルに脚をかける。「さあ、ここからは自らの脚で、力で!進んでいきましょう!」と鈴木さんが先頭をゆく。目線はぐっと高くなり、速度を上げて、風をきる。凪いだ心が昂っていく。

ヤウシュベツ川が注ぐ風蓮湖を横目に進み、起伏をいくつか越えたら右手に海が見えてきた。ここからはヨシが生い茂る湿原と根室海峡の間を進んでいく。車通りは少なく、人の気配もない。潮風に生活のにおいをかき消された、ただ移動するためだけのような道。再び訪れた静けさの中でペダルを漕ぎながら、原野の余韻に浸る。

燦々というよりは、ゆらゆらと揺らめくような光。暖色でも寒色でもないような儚げな色彩。心の中にすっと入ってきて、ぼうっと残る。

「人間の心の中には、明るさや楽しさや豊かさや優しさや温かさだけでは埋められないすき間みたいな領域があるんじゃないか。さみしさだけがそこを埋めるのだ」(穂村弘「迷子手帖」)

この一節を思い出して、深く頷いた。原野の儚い美しさに心がゆっくりと揺れ動いたのは、「さみしさ」が波を立てずに入ってきたからかもしれない。

ふと気づけば、自転車にまたがる影が少し伸びてきた。海にはブイが一列に浮かび、道路横では漁船や漁具の姿も。右から香っていた潮の匂いには、だんだんと磯の感じが強まってきた。漁師まちが近づいている。

尾岱沼漁港/漁師に聞く、海のこと、恵みのこと

どこか遠い存在に感じていた漁港という場所。堤防で釣りをしたり、魚市場に鮮魚を買いに行ったりすることはあっても、足を踏み入れる機会は意外となかった。尾岱沼漁港への緩やかな下り道を進むとき、正直少し緊張していた。

「ようこそ、尾岱沼漁港へ」。笑顔で迎えてくれたのは漁師の鈴木翼さん。楽しみ4割、緊張6割のこちらの心を知っているかのように、「なんでも聞いてください。なんでも答えますんで」と一言。にこやかな表情とその朗らかな言いっぷりに緊張は解けてなくなり、空いたスペースには好奇心がうねりをあげて押し寄せてきた。

目に入ってくるもの、すべてが「?」の初漁港、鈴木さんへの質問が止まらない。

「この船はなにを獲るんですか」「これは鮭の定置網漁です。来るとき、ブイが浮かんでいるの見えました?あの下に定置網が敷かれているんですよ」。鮭は網に進路をふさがれると沖の方へ泳ぐ習性があり、その進行方向に箱型の網を設置することで効率良く漁獲できること。船についている魚槽には3,000~4,000匹の鮭が入ること。温暖化の影響なのか、鮭の漁獲量は年々減っているが、代わりに暖水性の魚であるブリが増えていること。

「こっちの網はホタテを獲る網です」。尾岱沼を代表する名産のひとつ、大ぶりでよく締まったホタテ。流氷が豊富なプランクトンを運んでくれることに加え、突き出た野付半島によって狭まった海峡は潮の流れが速く、筋肉である貝柱が大きく育つそう。「ホタテからしたら、常に筋トレしているみたいな感じです。そりゃ大きくなりますよね」と翼さんは笑う。たしかに、ストンと腑に落ちる。

どんな問いに対しても淀みなく、そしてわかりやすく答えてくれる翼さん。聞けば出身は秋田県で、教師を目指して北海道の大学に進学。そこで実家が尾岱沼で漁業を営む女性と出会い、婿養子として尾岱沼にやってきて、教師ではなく漁師になったそうだ。「漁師はなろうと思ってなれる職業ではないし、ためらいはそこまでなかったです。むしろ何も知らない自分が跡を継げるなんて、ありがたかったですね」。清々しくさっぱりと話す翼さんといるとなんだかこちらも軽やかな気持ちになる。

いまは地域の若手有志で尾岱沼RINCという団体を結成して、学校で出前授業を行ったり、イベントを開催したり、地域の魅力を子どもたちに伝える活動をしているそうだ。想像していたより、漁港は開かれた場所なのかもしれない。

ミートハウスながの/別海野付の幸フルコース

さらに伸びた影を引き連れて、最終目的地のミートハウスながのへ。ここは、肉牛牧場を営む永野貴浩さんが「手塩にかけて育てた『潮彩牛』を思いっきり堪能してほしい」という思いで始めた飲食店だ。牛肉に限らず、別海野付の海産物を含めた食事を提供し、さらにはアウトドア事業や宿泊業も手がけながら、「旅の拠点」として地域の魅力を発信している。今日はここで、ガイドの鈴木さん、漁師の翼さんと一緒にテーブルを囲んで、別海野付のフルコースを味わうのがフィナーレだ。

店主の永野さん。「お腹すいたでしょう」と笑顔で迎えてくれた

尾岱沼産ホッキのカルパッチョを皮切りに運ばれる、目にも幸せな料理の品々。漁獲量が増えているというブリのしゃぶしゃぶは羅臼昆布のだしに合わせていただく。とろけるようなブリの身はもちろんのこと、上質な脂が溶け出した昆布だしはお椀で飲みたいほど格別な味わい。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ、と大きく頷きながらすすり続けた。「そしたらこれも必要だね」と注いでくれたのは、おとなり根室の地酒「北の勝 搾りたて」。ああ、これ以上、どこに染み渡ろうか。まさに野付のフルコース。序盤から贅を極めたテーブルだ。

尾岱沼の名産北海シマエビに続いて登場したのが、見事なまでに大ぶりなホタテ。「これが筋トレで仕上がった貝柱ですね」と感嘆の声が上がる。一口で頬張れば、噛めば噛むほどに甘みと風味が口の中に広がっていく。

「ほんとうに、おいしい」。

こんなにも噛みしめることができるのは、食材の背景を知っているからだろう。育った環境を、獲った人を知っている。そのことがこんなにも味わいを深くしてくれることも、今日わかった。そして感動を言葉にして、目の前にいる獲った人と調理した人に伝えられるのはとても気持ちが良い。

旅の仲間との会話。ここでしか出合えないディナー。味わい深い時間が流れていく。

原野の恵み、別海の恵み

「このあたりは苦労が染み込んでいる土地だからさ」。食卓を囲みながら、鈴木さんが優しく語りかける。鍬を手に、北の大地に挑んだ開拓時代。耕起して畑作を営む土地、家畜を育てる土地、海の恵みを享受する土地。猛威にさらされ、打ちのめされながらもその環境と共生する手段で産業を確立し、生活の営みを続けてきた。そしてその鍬が及ばずに残った土地が、今日旅をしてきた、手つかずの原野だ。

賑やかな観光地でもなく、営みが繰り広げられる生活圏でもなく、人の気配のない原野。喧噪が飛び交い、あらゆるスピードで流れていく日々からポツンと飛び込むと、圧倒的なさみしさに包まれた。遮られることのない光は水面で跳ね、傾きながら影を伸ばしていき、風はヨシを揺らし、匂いを運ぶ。研ぎ澄まされた五感はさみしさの中にある美しさを見出し、決してまばゆくはないが絶えず揺らめくような輝きは、じんわりと心に沁み込んでいった。

そんな話がテーブルで交わされているとき、鈴木さんは「うんうん、そうだね」と穏やかな表情で頷いていた。すべてを説明するのではなく、時にその場を盛り上げ、ときにはこぼれるようにポツリと。「喋りすぎないようにしているんです。広大な原野を感じてほしいから」という言葉の通り、鈴木さんに導かれるようにして今日は原野に浸った。

五感で感じながら、考えながら、恵を味わう旅。もし車で行くならば、出発地点からミートハウスながのまでは30分ちょっと。その道のりを、ゆっくり時間をかけて、目線を変えて、旅してきた。だからこそ見逃さず、こぼさずに受け取れたものがあった。

別海を深く味わうには、今日のルートがいいだろう。
そんな旅の余韻を、「北の勝 搾りたて」でキュッと流し込んだ。

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Gaku Kunishima

みなとまち新潟市出身、十勝在住。雑誌編集部による旅行部門「Slow Travel HOKKAIDO」に所属。編集者兼ツアーコーディネーターとして道内各地を飛び回り、大自然と人の営みに深く魅了される日々を送る。贅沢は朝風呂。

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